用事を済ませ森ノ宮から上本町六丁目まで、玉造筋から上町筋の間
を歩いてみました。
まず、鵲(かささぎ)森宮です。
①です。
推古6年(598)、鉄鋼業の祖・吉士磐金(きしのいわかね)が新羅より鵲二羽を献上し
「難波の森」で飼育したと『日本書記』に書いてあるそうです。
森之宮神社とも呼ばれ、聖徳太子が四天王を祀って建立した寺があり、移転して
現在の四天王寺になったそうです。
③は森之宮遺跡 大阪市内で数少ない貝塚が見つかり、縄文期の屈葬人骨が発見されて
います。大阪市民第一号の人たちだそうです。 ^^)
河内湾から河内湖への変遷する地形が読み取れるそうですよ。
「大阪あそ歩マップ集」その1 No.020 より
④玉造稲荷神社です。
近松門左衛門と西国三十三か所の御詠歌を刻んだものを目にしました。
古代は玉作岡と呼ばれ勾玉などを作る玉作部が住んでいる地域でした。
この辺りに千利休の屋敷があったそうです。
江戸時代の伊勢参宮街道の起点にもなっていたそうです。
漫才作家の秋田實は玉造出身だそうです。
彼の書いた漫才面白いですよ。オール阪神・巨人のネタも彼の作品です。
横山エンタツ・花菱アチャコなんて、皆さん知りませんよね・・・
⑦大阪カテドラル聖マリア大聖堂です。
この辺りに戦国大名細川家の屋敷があったそうです。
谷六辺りには、龍造寺町というのがあって、九州の戦国大名龍造寺を連想させます。
たぶん、1590年代には大名屋敷が並んでいたんですね。
明智光秀のお嬢さんですね。
明智光秀は”智に明るく、ひかり秀でる”というすごいお名前です。
事実、一介の浪人から、ライバルをごぼう抜き、織田家の重臣に上り詰めた人。
マルチプルな才能の人だったんでしょうね。
お嬢さんの珠も聡明で美しい人だったのでしょう。(勝手な想像ですが)
この辺りにあった細川屋敷で悲劇の最後を迎えました。
この越中井だけが遺構として残っています。
ここから真田丸があった辺りに向かうことにしました。
⑤心眼寺辺りです。
真田丸の顕彰碑があります。
三校神社①に向かいます。
真田幸村の勇ましい像があります。
懐かしいものを目にしました。
”粟おこし”
子供の頃、お葬式があると、いつも”粟おこし”をもらった記憶があります。
(不敬な例でごめんなさい。)
阿弥陀大黒=”粟おこし”
今の若い人にはピンとこないでしょうね。
最後に高津宮があったといわれる付近を歩いて上本町六丁目に向かいました。
今日歩いてきた辺りは、段差が楽しめます。タモリさんならビンゴ!です。
天満橋から天王寺まで、玉造筋から松屋町筋までの間は、段差、高低差の宝庫です。
今日、ご紹介しているのは、谷四から谷九玉造筋から上町筋の間にある坂道です。
みなさんも歩いて、お気に入りの坂を見つけてください。
さて、高津(こうず)宮です。
府立高津高校です。
仁徳天皇の高津宮があったと言い伝えられていて、府立高津高校内に
高津宮跡の石碑があるそうです。
父がこの高津高校のOBでした。
親父はこの辺りを毎日歩いてたんだなあと~
東高津宮です。
上本町六丁目はすぐそこです。
私の足で1時間~1時間半の街歩きでした。
ここで終了し近鉄上本町に向かいました。
では、楽しい週末をお過ごしください。