こんばんは。
公私とも一区切りついたので、
ひさしぶりに、
キ-ボ-ドに向かっています。
橋本治の遺稿が本になったのでさっそく読みました。
「原っぱ」という社会がほしい
内田樹が序文でこう書いています。
たしかに橋本さんがその生涯をかけてしてきたのは、「誰のものでもな
い土地で空いているだけ」 の場所を、そこから無尽蔵の喜びを引き出す
ことのできる「草の海」に見立てることだったと思います。『桃尻娘』
が衝撃的だったのは、そこにふつうの高校生の生活がそのまま書かれて
いたからです。高校生の思いが、高校生の言葉づかいのまま書かれて
いた。それが信じられないくらいに面白かった。「大人にとってみれば
なんの意味もない」ような高校生の独白を橋本さんは魔法のようなすてき
な物語に仕上げてしまった。それは原っぱを時代劇の舞台にしたり、少年
探偵団ごっこの舞台にしたりして、時を忘れて遊んでいたのとあまり変わ
らなかったのだと思います。(以下略)
前掲書 序文 草の海のキャッチャー p4
構成は
第一章 「近未来」としての平成
第二章 「昭和」が向こうに飛んでゆく
第三章 原っぱの論理
第四章 遠い地平、低い視点
特別掲載 野間文学賞贈呈式スピ-チ原稿
読みたかったのは、第三章、原っぱの論理
このような内容が綴られています。
①メンドウクサイことなんか知らない。
②女ばかりやたらいた
③我が祖母、橋本千代のこと
④近所にも子供達がいた
⑤そこに原っぱがあった
⑥世界で、一番幸福だった時代
⑦原っぱが遠ざかる日
⑧中学だって遊んでた
⑨大人は、判ってくれないんだ
⑩原っぱという社会ほしい
橋本治はこう述べています。
原っぱがあったからなのね。なんの意味もないただの空き地だったんだ
けど、僕たちがそこにいることによって、そこが僕たちの世界に変わって
った。だからつまり、世の中がいくらぎゅっと縮まってっても、原っぱが
ありさえすれば、そこにいさえすれば、人間って、なんとかなるよう
なものっていうのは作れるかもしれないと思うのね。だからその、みんな
で作ってく混沌を平面に存在させる場所っていう、そうゆう原っぱってい
うのがなくなっちゃ駄目なんだよね。でそれは、原っぱじゃなくても、
一つの概念でありさえすればいいと思うのね。(中略)
<原っぱの論理>っていうのは、場所の論理であって、人の論理であっ
て、時間の論理であって、その三つっていうのが全部一つであるって
ゆうのは、自分っていうのは色んな要素からでき上げっているから、
”色んな要素の中の何か一つ”ではなく、色んな自分ーその自分の手を取っ
てくれる他人っていう形で広げていかないかぎり、目って何も見えないと
思うの。(以下略)
前掲書 p187~194
⑪ 少年の為に
この章を橋本治はこう締めくくります。
真面目になるのはなんの為? 冗談が分かる為じゃないの?
全部蹴っ飛ばす為にあるんですよ。蹴っ飛ばした後に自分があるんだも
ん、ってふうに僕は思ってるから、もう冗談やったのね。
だって、ビ-トたけしが漫才界の哲学者になるのは簡単だけど、
エマニエル・カントがビ-トたけしになれるかって言ったら、
なれないでしょ? こういう話は、ほっとくとキリがないので。
ちょうど時間になりました。
終わりということにいたします。(拍手)
前掲書 p200
「原っぱ」
この空間で過ごすことによって、
いろいろなことを身につけました。(笑)
『生きている社会』だったと思います。
橋本治が望んだ「原っぱ」という世界を
これからの時代を担う世代に体験してほしい。
私ももう一度、
「原っぱ」で暮らしたい。
見果てぬ夢ですが・・・
せめて、
夢の中で、
「原っぱ」を走り回ることにします。(笑)
みなさん、おやすみなさい。