こんばんは。
奈良北西部、おだやかな夜を迎えています。
午前中出社し、
午後はWork from home で過ごしました。
今日から新年度、
「私の古典」である、この2冊を再読し、
心をフォーマットすることから始めることにしました。
まず、
抜きん出た知性と独特の感性、
研ぎ澄まされた文章、
読むたびに、新しい!!!があり、
何度読み返してもあきません。
勝手に私淑して、
「私の古典」として愛読しています。
はてなブログにも
彼の「小さい新聞」という文章から
題材を得て書いたことがあります。
ある主題に対する取り組み方について、
貴重な視点を提供してくれました。
「自分用の索引」というブログ名も
この本の中の目次から閃いて、
使っています。
「記憶を編みなおす」という文章の最後で、
彼はこう記しています。
自分に使いやすい索引を、くりかえしあらためて編むことを心
がける。
私なりに、
自分の「孵卵器」 として、
こんなスクラップノ-トを作って、
索引を練り直す作業を続けています。
例えば
3月27日の神戸新聞で目に留まった記事
学生時代、
一般教養で「神戸の自然災害」という講義を受けたこともあり、
それとシンクロしたのでしょうね。
だって、
もう神戸に地震は起こってほしくないですからね。・・・
ホンマ・・・・
老人新2年生の自己満足ですが・・・(笑)
もう一冊は、
私が大切にしているフレ-ズです。
しかし、とくに考えてみたいのは「文は心である」ということです。
正確にものごとを見る訓練をおろそかにしている人が、はたして正確な
文章を書くことができるでしょうか。大自然と遊ぶたのしさを知らない人
が、人の心をとらえる自然の描写をすることができるでしょうか。
品性のいやしさが顔に現れている人が、品格のある文章を書くことができ
るでしょうか。いらいらせかせかの気分のまま机に向かって、読む人の心
にしみる落ち着いた文章を書くことができるでしょうか。ひとりよがりな
ことばかりいっている人が、目配りのきいた、均衡のとれた文章を書くこ
とができるでしょうか。表面はごまかせるかもわかりません。しかし、
心のゆがみは、その人の文章のどこかに現れます。
ですから、文章の修行をするということは机の前に座ったときに始まる
わけではないのです。いい文章を書くことと、日常の暮らしの心のありよ
うとは深いつながりがあります。その人の文章のありようと、その人の生
きる営みとは切り離せません。(以下略)
私の日々の指針になりました。
キーボ-ドに向かっている間に、
頭がフォ-マットされて、
これからの日々で
読みたい著者の名前が浮かんで来ました。
鶴見俊輔 辰濃和男、橋本治 内田樹 森鴎外 加藤陽子 丸山真男
読破したい妄想が駆け巡ります。(笑)
しかし、現実は
残された時間とのせめぎ合い・・・
do one thing at a time
大学受験の時使った『和文英訳の修行』 佐々木高政
例文集を500覚えましたが、すっかり忘れてしまい、
この例文だけが頭に残っています。
焦らず、
私淑する作家達と
心の対話を楽しみながら
日々暮らせばいいですよね。
今年で67、
老人1年生から2年生になった男の独り言でした。(笑)
では・・・・
楽しい金曜日をお迎えください。