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奈良県在住。日々のログとして書くことにします。

父の日 向田邦子の傑作、『字のない葉書』を改めて読み直してみる。

今日は父の日、向田邦子の『字のない葉書』を改めて読み直しました。

 

文庫本で僅か4ページ、1976年7月 家庭画報に掲載されたものです。

 

国語の教科書で読んだことのある若い世代の方々もいらっしゃると思います。

 

 

わが子を想う父の姿を、短く簡潔な文章で書く、向田邦子に感性に脱帽です。

 

 

 

向田邦子に敬意をこめて、書き写してみます。

 

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 死んだ父は筆まめな人であった。

 

 私が女学校一年で初めて親許を離れた時も、三日にあげず手紙をよこし

 

た。

 

 当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶ

 

 りの筆で、「向田邦子殿」と書かれた表書を初めて見た時は、ひどくびっ

 

くりした。父が娘宛の手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、つい、四、

 

五日前まで、「おい邦子!」と呼捨てにされ、「馬鹿野郎!」の罵声や拳

 

骨は日常のことであったから、突然の変わりように、こそばゆいような晴

 

れがましいような気分になったのであろう。

 

 文面も折り目正しく時候の挨拶に始まり、新しい東京の社宅の間取りか

 

ら、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女と呼び、「貴女の

 

学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引きをひくよう

 

に」という訓戒も添えられていた。

 

 褌ひとつで家中を歩き廻り、大酒を飲み、癇癪を起して母や子供達に手

 

を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情に溢れた非の打ち所のない父

 

親がそこにあった。

 

 暴君ではあったが、反面テレ性でもあった父は、他人行儀という形でし

 

か十三歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日ごろ気

 

恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれな

 

い。

 

 手紙は一日に二通くることもあり、一学期の別居期間にかなりの数に

 

なった。私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはな

 

しにどこかへ行ってしまった。父は六十四歳で亡くなったから、この手紙

 

のあと、かれこれ三十年つきあったことになるが、優しい父の姿を見せた

 

のは、この手紙の中だけである。

 

 この手紙も懐しいが、最も心に残るものをと言われれば、父が宛名を書

 

き、妹が「文面」を書いたあの葉書ということになろう。

 

 終戦の年の四月に、小学校一年の末の妹が甲府学童疎開をすることに

 

なった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開してい

 

たが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手離さなかったの

 

である。ところが三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命か

 

らがらの目に逢い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。

 

 妹の出発が決まると、暗幕を垂らしたくらい電灯の下で、母は当時貴重

 

品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしい葉

 

書を几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。

 

 「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」

 

 と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。

 

 宛名だけ書かれた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、雑炊用のド

 

ンブリを抱えて、妹は遠足にでもゆくようにはしゃいで出掛けて行った。

 

 一週間ほどで、初めての葉書が着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威

 

勢のいい赤鉛筆の大マルである。付添っていった人のはなしでは、地元婦

 

人会が赤飯やボタ餅を振舞って歓迎して下さったとかで、南瓜の茎まで食

 

べていた東京に較べれば大マルに違いなかった。

 

 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛

 

筆の小マルは遂にバツに変わった。その頃、少し離れた所に疎開して

 

いた上の妹が、下の妹に逢いに行った。

 

 下の妹は校舎の壁に寄りかかって梅干しの種子をしゃぶっていたが、

 

姉の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうな。

 

 間もなくバツの葉書もこなくなった。三月目に母が迎えに行った時き、

 

百日咳を患っていた妹は、蚤だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされて

 

いたという。

 

 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園の南瓜を全部収穫した。

 

小さいのに手をつけると叱る父も、この日は何も言わなかった。

 

私と弟は、一抱えもある大物から掌にのるウラナリまで、二十数個の南瓜

 

を一列に客間にならべた。これ位しか妹を喜ばせる方法ががなかったの

 

だ。

 

 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、「帰ってきたよ!」

 

と叫んだ。茶の間に坐っていた父は、裸足でおもてに飛び出した。防火用

 

水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の

 

男が声を立てて泣くのを初めて見た。

 

 あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。

 

だが、あの字のない葉書は、誰がどこに仕舞ったのかそれとも失くしたの

か、私は一度も見ていない。

 

                    (家庭画報/1976・7)

 

 

      『眠る盃』  講談社文庫 1982年6月  

 

      39ページから42ページ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  私も末っ子が社会に巣立ち、卒業式前日に「社会人になる貴方に」

 

 と、短い手紙を書きました。

 

 

向田邦子の父のやるせない想いに満ちた葉書に比べ、平和な時代に、子供に手紙

 

をしたためることができる事に感謝し、

 

これからも、おだやかな日々が続くことを願っています。

 

 

 

 

このお話しのような日本にだけは・・・戻したくないですね。

 

 

では、楽しい日曜の夜をお過ごしください!